テーマ:“4丁目の夕日”

489号 “4丁目の夕日”(最終回)

小学校6年生のころ、私は天文少年だった。宇宙に関する本を読み漁ったとともに、望遠鏡に興味を持ち、自作の望遠鏡を作るようになった。 自作と言っても現代のような、キットで組み立てるわけではない。当時でもキットは売っていたが、それを買えるお金もなかったから、本当に1から作った。 まずレンズを買った。対物レンズは口径4cm、接眼レンズは…
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457号 “4丁目の夕日” (21)

ボーイスカウトに入団したのは、4年生くらいだったかよく覚えていない。 父が懇意にしていたスポーツ店の紹介で、浦和10隊というグループに入った。当時は体があまり丈夫でなかったため、親が考えて入隊させたのだ。 週一の訓練はお寺の敷地内でやった。 手旗信号はとうとう覚えなかった。ロープの結び方もいろいろ教わったが、まぁ劣等性だったと…
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451号 “4丁目の夕日” (20)

付属小学校に3年生から編入した。3年の担任は中本先生ということは以前に書いたが、4年になると熊倉先生が担任になった。音楽の先生だったが、ちょっと厳しい先生だったと記憶している。 このころクラスではやったのが「抱きつきごっこ」だ。悪ガキのI君が女子のOさんをそそのかし、「あいつに抱きつけ」と言い出したことから始まった。女子が男子に抱…
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441号 “4丁目の夕日”(19)

浦和市仲町4丁目133番地、これが私の生まれた家だ。 子供のころ私はしょっちゅうケガをしていた。。ケガの大半は切り傷擦り傷の類で、外で駆けずり回った遊んでいたから仕方がない。それに虫によくさされた。さされると大きく腫れてしまい、これが結構重大な結果となった それで当時はやりだしたペニシリンをよく打った。ペニシリンショックという事…
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428号 “4丁目の夕日”(18)

小学校2年のとき、付属小学校転入の試験を受けた。 5人が合格し、3年から付属の生徒になった。埼玉大学教育学部付属小学校は家からすぐのところにあり、忘れ物をしても家まで走って帰ればなんとかセーフの距離だった。 試験で覚えているのは、面接のときだったと思うが、先生が歌の本をめくりながら、「こんな歌がありますね」と見せてくれたのが「シ…
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423号 “4丁目の夕日” (17)

まんがはよく読んだ。当時は週刊誌はなく、すべて月刊誌だった。「少年クラブ」、「少年ブック」、「冒険王」、「おもしろブック」、そして愛読した手塚治虫。「ロック冒険記」や「鉄腕アトム」があった。 山川惣治の「少年王者」は胸をときめかせた。 「少年ブック」だったと思うが、小松崎茂の「二十一世紀人」という未来ものの、漫画というよりは絵物語が…
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420号 “4丁目の夕日” (16)

私の祖父は、橋本吉之助という。明治14年の生まれだ。明治14年というと、自由民権運動のなかで、大隈重信が追放された年だから、今から見ると日本史の世界だ。 私の名前は祖父が命名してくれ、祖父の一字をもらった。 昭和27年12月に他界しているが、それまでは浦和の駅前で八千代証券という会社を経営していた。昔の写真を見ると、母親の説明だ…
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416号 “4丁目の夕日” (15)

いつの頃からか「日曜学校」に通うことになった。プロテスタントのキリスト教会である。教会の建物は同じ4丁目にあったが、構内の塀の鉄製手すりは、すべて戦時中に供出していたので穴だけが目立った。 牧師さんが「鉄道唱歌」のメロディを使って、新約聖書の「○○伝」を覚える方法を教えてくれた。 マータイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝(汽笛一声新…
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407号 “4丁目の夕日”(14)

昭和20年代~30年代前半を振り返っている。浦和市仲町4丁目133番地が私の生まれた家だ。 小さい子供だったから寝るときは両親と同じ部屋で寝た。夏は蚊帳をつった。廊下は開けっ放しで外の街頭が見えていた。家に鍵なんてなかったような気がする。 ときどきオネショをした。見つからないように・・といっても母は気づいていただろう・・…
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399号 “4丁目の夕日”(13)

20年代~30年代当時は電話は貴重で、どこの家にもあるというものではなかった。申し込んでも3年後とか言われた。学校の名簿に電話番号を載せるのだが、番号の後に(呼)とつけている子が多かった。(呼)は呼び出し電話の意味で、つまり近所の電話を持っている家から呼んでもらうのだ。一番最初に呼び出し電話をお願いしたのが、タバコ屋さんで、100m以上…
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395号 “4丁目の夕日”(12)

近所の子供というと、“ちょうどいい”のが少なく、一番遊んだのが山崎君だ。弟がいて“あっくん”と呼んでいたが、本名はとうとう知らずにいた。山崎君の家は土地が200坪あったから、遊ぶのには不自由しなかった。ポコペン缶けりは我々が発明した遊びだった。カゴメカゴメと缶けりを組み合わせたような遊びで、結構興奮した。 庭の奥には梅ノ木があり、…
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393号 “4丁目の夕日”(11)

東京タワーが出来たのは昭和33年である。TV放送が始まったのは28年だが、当時は各局がそれぞれTV塔を持って別々に送信していた。局の場所はいろいろだから、固定してある家庭のTVアンテナでは映りが極めて不安定だった。そこで各局をまとめる共通のタワーが必要になった。それが東京タワーだ。 父の友人でミシン店をやっていた須崎さんという人と…
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389号 “4丁目の夕日”(10)スペシャル

0歳の筆者 隣は姉 母は25歳くらい 父のメモによると昭和26年6歳のとき 母が抱いているのは3歳のとき家に来たネコ ブログに書いた水道タンク、小学校の帰り道この上で遊んだ 父と絵画館にて 愛犬“ペル” ボーイスカウトに入っていた 水道タンクが見える なんだかわ…
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384号 “4丁目の夕日”(9)

浦和市仲町4丁目133番地。これが私の生まれた場所だ。 母方の祖父母が築地に住んでいて、正月にはいつも親戚一同集まった。 浦和から当時の省線で行くのだが、20年代当時は車両間の行き来が出来なかった。現在のように車両の移動が出来るようになったのは、桜木町事件の後である。 有楽町を降りると、駅前には大勢の傷痍軍人がいた。戦地で…
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375号 “4丁目の夕日”(8)

昭和20年代~30年代前半を振り返って見ている。 とうとう我が家にも風呂が出来た。それがいつごろだったか覚えていないが、小学校低学年のころだったのだろう。風呂は木製で楕円形のような形をしていた。燃料は石炭である。 風呂場の脇には物置があり、ここに石炭が置いてあった。お湯がぬるくなると、石炭をくべる。SLの運転手が石炭を放り込むよ…
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372号 “4丁目の夕日”(7)

昭和20年代~30年代前半の思い出を綴っている。 木炭バスや輪タクをご存知だろうか。両者ともいつごろまであったのか定かではない。木炭バスはウィキペディアによると、1940年代に使用されたとある。母親のひざに乗せてもらってバスに乗っていたが、走行中によくエンストして(エンコと呼んだ)運転手がその都度降りて修理していた。 輪タク…
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365号 “4丁目の夕日”(6)

1年生の学芸会を覚えている。樹の精(5人)の役で、樹を模した小道具の一番高いところに、当時神童といわれていたM君とかわいい系の女子が並んで立つ。左右両側45度の角度で別な二人が立ち、最後に90度の角度で顔だけ出すのが私で、樹の横から真横に顔を出すので非常に苦しい思いをした。 2年生のとき、埼玉会館で音楽の発表会があった。「橋本君は…
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361号 “4丁目の夕日”(5)

昭和27年4月に小学校に入るが、その1,2年前に幼稚園の試験を受けて落ちている。 小学校は近くに仲町小学校が建設中だったが、入学式には間に合わず、3ヶ月ほど常盤小学校へ通った。二部授業である。二部授業というのは、午前の部と午後の部に生徒を分けて、教室の足りなさを補う苦肉の策だ。午前の部で授業を受けていると、午後の部の子供たちが廊下で待…
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355号 “4丁目の夕日”(4)

家のトイレは玄関についている2畳間の先、廊下の端にあった。もちろん水洗ではない。今のようなトイレットペーパーもまだなかった。「ちり紙」が使われたが、不足したときは新聞紙を切って使った。. 水洗でないから溜まると浚いに来る業者がいた。あれはどういう人たち(市役所?民間?)だったのだろうか。お金を払っていたのだろうか? バキュームカーなど…
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350号 “4丁目の夕日”(3)

昭和23年にネコが来た。どうして来たのかはわからないが、多分ノラネコだったのだろう。茶色のオスネコでマルという名をつけた。マルは14年生きて昭和37年に隣の縁の下で寿命を終えた。ネコは誰にも見られないところで死ぬらしい。他にペルという犬を飼ったが、これはいつ死んだのかも思い出せない。飼った動物はこの2匹だけだ。 家の電気製品と…
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345号 “4丁目の夕日”(2)

浦和市仲町4丁目133番地、私の生まれ育った家の住所だ。 敷地は74坪あったから、庭は子供の目から見ると結構広かった。門を入ると、左手に庭に行ける小扉があった。そのすぐ横にケヤキの木があり、この枝を使ってチャンバラの刀を作ったりした。その奥にはいちじくの木があり、季節にはむしって食べたものだ。実を割ると大抵中に蟻が潜んでいた。いちじく…
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344号 “4丁目の夕日”(1)

昭和20年代から30年代前半の生活がどんな風であったか、少し思い出して書いてみたい。 浦和市仲町4丁目133番地。これが私の生まれ育った家の住所だ。戦前、祖父の不動産開発事業で建てた家の1軒が父に与えられた。もちろん木造の平屋である。皆が貧しかった当時は、同じような家が多かった。 私が生まれた昭和20年4月、戦争がまだ終わっ…
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